こちらからどうぞ、オオカミのお口のなかへ

ミカエル・リュケン

『ポリフィーロの夢』2014年、原美術館

東京の個展である人が詰問するように「あなたの仕事は漫画やアニメの 世界から着想を得ているのですね!」とニコラ ビュフに言ったことが あった。こうした物言いには「日本で行われていることとそっくり。あ まりにもそっくりだ」との意味合いが言外にほのめかされている。ニコラ ビュフは「よいことをおっしゃってくださいました、まさしくそのと おりです」と答えてもよかったのではないだろうか。彼は 2007 年から 東京に居を構えた東京芸術大学の博士課程の学生だったのだ。
ルネッサンス、ハリウッド、日本のアニメなどから取り入れたモチーフ を織り交ぜることで、ニコラ ビュフはそれぞれの領域を仕切る境界とは 何かを問い直し、それゆえに固有性そのものを問い直している。人々の、 諸文化の、様々なスタイルの、それぞれの固有性を問い直しているのだ。 つまりは以下のような問いである。ビュフの作品は日本の「われわれ」 において居場所を見つけられるのだろうか。日本は西洋的な「私」の部 分となることができるのだろうか。しかしそれらを超えて、このような 区分けにいまだ意味があるとすればどの程度のものであるのだろうか。
ほぼ 200 年にわたって、東洋のとりわけ日本の芸術家たちはヨーロッパ において模倣者とされてきた。自分の国の伝統、またはヨーロッパ芸術 の諸形態の模倣者であると。こうした極度に否定的な価値判断をくだす ことで、西洋人は「創造主」として自任し、支配の権利を主張する根拠 としてきた。しかしながら、日本人自身もこうした価値観を取り入れて きたのである。1913 年の時点から夏目漱石は日本人が外部モデルを再 生産するのをやめるように主張していた。漱石は「考えるとそう真似ば かりしておらないで、自分から本式のオリヂナル、本式のインデペンデ ントになるべき時期はもう来ても宜しい。また来るべきはずである [1]」 と書いている。しばらくあとの 1927 年、東洋史学者の桑原隲蔵は常套句に手を加えながら「支那人は一般に模倣は上手であるが、應用が不得 手である [2]」と述べることで日本の優位性を強調している。この時期よ り日本は「ミメーシスへの欲求」をもっとも強い原動力の一つとしたロ マン主義的近代の諸価値を内在化させたのだ。[3]

1970 年代より日本の映像文化はますますひろく世界に受け入れられ、 模倣をしようとする切迫感はバランスのとれたものとなった。今やヨー ロッパでも、アメリカでも、数万人の若者が日本の漫画のスタイルで絵 を描いている。鏡をひっくり返し、こうした現状を嘆くだけで満足して よいのだろうか。なによりもこれは近代の諸価値とは何かを、「われわれ」 という言葉を、「われわれ西洋人」や「われわれ日本人」というときの 人類そのものの区分けとは何かを問う機会ではないだろうか。日本が根 底のところでは徐々に近代の諸価値̶ 個人と科学の重視、模倣にたい する創造の優越、経済自由主義など̶ を取り入れたのに、近代性を共 有する文化の共同体を意味する言葉が人種的かつ地理的基準を超えたと ころではほとんど存在しないのは奇妙なことではないだろうか。
長いあいだニコラ ビュフにとってインスピレーションの源泉となって いたのは『ポリフィルス狂恋夢 [4]』であった。まだ彼がパリで学生だっ たころ、そのことを語る際の情熱的な調子を私は思い出す。この物語の 主人公ポリフィロは恋する若者ではあるが、その愛は満たされることが ない。粘り強い頑張りのかいあって、この若者は愛する女性を魅惑する に至る。ところが、我が手にしかと抱きしめ今や欲望が満たされんとす るその刹那に、自分のものと思い込んでいたその女性は消え去ってしま う。ルネッサンス時代にさかのぼるこの挿絵付き物語で語られているの は、個人が他の個人と一体となることの不可能性であり、それは夢想の なかですら変わらないということである。愛の力で他者に溶け込んだとおもった刹那に、自分自身の境界へと引き戻されてしまう。「私」のみ があり、「われわれ」とは幻想でしかないのだ。ポリフィロとは、この ような視点から眺めると、欲望することも、ときには他者や集団性のな かに溶け込もうとしてみる存在でありながら、心の奥底では目的が達せ られないことをすでに知っている、自分自身の愛によって疎外された近 代的人間そのものである。今日でもなお扱われてよい素材ではないか。
1920 年代から、日本の思想家は近代の矛盾から抜け出す方策について思索を巡らせていた。ハイデガーとドイツ現象学の影響を受けた中井正一のような思想家たちは距離(日本語の「間」)の問題を間主観的空間 の問題として検討した [5]。「間」に関心を持つことは、個別でありなが ら必然的につながった数々の事物の緊張に満ちたひろがりを空間として 扱うということである。たとえば、音楽で一つ一つの音を引き離しなが ら目立たせようとするとき、互いに距離を取らせつつも結びつけている。 またさらに大きな次元では、一つの文化をもう一つの文化から距離を取 らせることでそれぞれがどのように異なっているのかをよりよく示すこ とができる。「間」を重視することは西洋の植民地主義的言説による暴 力にたいする日本なりの答えなのだ。

ニコラ ビュフの作品は距離を混乱させる。古典文化と民衆文化、偉大な 芸術と娯楽、荘重さと軽薄さ、美の理想と装飾機能、西洋への準拠とア ジアへの準拠、永続的なものとはかないもの、美術館とストリートといっ た近代美学を構築するほとんどの二項対立がそこでは揺り動かされてい る。彼の作品は西洋近代の暴力的なヒエラルキーに安住せず、さりとて 日本的な「間」の求めるところ、つまり差異や状況を恭しく尊重する清 潔な空間をよしとするわけでもない。そうではなく、むしろ「オオカミ のお口にお入りなさい」と呼びかけているのだ。「オオカミのおなかに何があるのか見にいってらっしゃい」と。ビュフの作品にはどこか自身 の限界まで成長を続ける有機体のような増殖する何かをおもわせるとこ ろがある。装飾的な側面がみられるのはそうした意味においてである。 装飾はそれ自体が目的ではなく、すでに存在する枠組みの上を通りぬけ るための、すでに打ち立てられた様々なシステムから自らを解放するた めの手段なのだ。

2012 年末に北野武は『間抜けの構造』と題された本を出版した。滑稽 を装いながらも、そこでは「間」や距離をめぐって批判的な問い直しを こめた真摯な思索が繰り広げられている。彼によると「日本人が得意な “ 間 ” は、かえって新しいものをつくる妨げになるのかもしれない [6]」 のだ。ジャンルを混交させ、敷居を重視しながら、ビュフは 20 世紀に 批判的な視線を投げかけるのみならず、刺激的な解決策を提案する。西 洋の絵画は長い間アルベルティ流にいうならば歴史と世界に「開かれた 窓」として思考されてきたのにたいして、ニコラ・ビュフはむしろ「扉」 として絵画を見ているのだ。事実、彼は扉の形をした作品を多く制作し ている。すでに存在している構造物上の例として、2008 年パリのダイ アン・フォンファステンバーグのブティックや、2009 年ニューヨーク での個展「ゲーム・オブ・ラブ・アンド・チャンス」のエントランス、 中庭に展示されたものとしては 2009 年のフランス大使館での作品など が挙げられる。彼自身のウェブサイトのトップページは門扉のデザイン である。彼の作品を作り上げているアーチや円柱もまた扉のようなもの である。この点にかんしては、敷居を重視するこうした方法にはビデオ ゲームを想起させるものがある。多くのビデオゲームは通路を見つけて 次のレベルに進んでいくようになっているのだから。

これらすべてはゲームでしかないのではないか。もちろんそうだが、し かし、である。 絵画を窓ではなく扉とすること、それはまなざしについて、外を眺めな がら内に、あちらがわを眺めながらこちらに、昨日を眺めながら今に、 彼らを眺めながらわれわれにとどまるものとはしないようにすることな のだ。見る者は壁の片側から眺めながらも、さらに歩を進めて反対側か ら眺めることができるようになる。こうした選択には強く美学的な側面 があり、かつ倫理的な側面もある。まなざしにたいして壁を通りぬけて みよと提案することは̶ それが身体的なものであっても比喩的なもの であってもどちらでもよい̶ ひいては経験と視点の複数性に価値を与 えようとすることである。複数性とはいまだに支持されることがなかな かないのだが本質的な概念である。複数性は個別性と対立するが、個別 性が並置されているに過ぎない多様性とも対立する。複数性は「自然な」 融合であると主張する混血でもない。複数性の意義とは主体の分裂を、 裂け目と断層と矛盾を受け入れることにある。それは孤立した「私」へ の拒絶であり、漠とした「われわれ」への拒絶である。ただし、個人と してのありかたそのものをリセットしようとしているのではない̶ ニ コラ ビュフの作品にみられる個性はあきらかではないか̶ そうではな く、個人とは複雑なものとしてあり、唯一の主人に仕える僕としての主 体ではない、そのことを受け入れることこそが複数性なのだ。こうした ことは多くの人々にとって自明なことでありながら、それを認めること が、なぜ、いまだこんなに人を恐れさせるのだろうか。

(仏文和訳:平林通洋)

1. 夏目漱石、「模倣と独立」、『夏目漱石全集』、第33巻、東京、岩波書店、1957年、125頁

2. 桑原隲蔵、「支那人の文弱と保守」、『桑原隲蔵全集』、第 1 巻、東京、岩波書店、1968 年、487 頁

3. 参照:ルネ・ジラール(古田幸男訳)、『欲望の現象学:ロマンティークの虚偽とロマネスクの 真実』、法政大学出版局、1971 年

4. 訳注:フランチェスコ・コロンナ作とされる(異論もある)イタリア語とラテン語を交えて書 かれ 1499 年にヴェネチアで印刷された『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ』のこと。1546 年 にフランス語訳が出版されたさい『ポリフィロの夢』とされ、日本では澁澤龍彦による和題『ポリフィリス狂恋夢』(『胡桃の中の世界』、青土社、1974 年)で紹介された。ただし、本文自体はまだ和訳されていない。

5. 参照:中井正一、「芸術の人間学的考察」、『中井正一全集』、第2巻、東京、美術出版社、1981年、3-10 頁

6. ビートたけし、『間抜けの構造』、新潮社、2012 年、157 頁

 

 

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狂恋夢のマニエラ ニコラ ビュフと『ポリフィーロの夢』

伊藤 俊治 美術史家 / 東京芸術大学先端芸術表現科教授

『ポリフィーロの夢』2014年、原美術館

ポリフィーロは夢見る。

イタリアのドメニコ僧フランチェスコ・デ・コロンナの『ポリフィーロ の夢』(1499)は修道士ポリフィーロが愛するポーリアへの叶わぬ恋に 苦しんだ挙句眠りに落ち、夢のなかで不思議な森や壮麗な庭をさまよい、 ポーリアと再会し、華やかな祝祭や神秘の儀礼といったさらなる冒険や 回想を経て結ばれる中世冒険譚である。しかしインキュナブラ(印刷揺 籃時代)の最高傑作と呼ばれるこの書物が人々を魅了したのは、建築、 医学、動物学、植物学などの百科全書的な知の体系の深みと奇想天外な 木版挿画の精緻な美しさだった。数奇な物語に折り重なってゆくそれら の知の網とイメージの鎖は、錬金術書やタロットカードを思わせながら、 目眩く想像力と古代知の大パノラマの観を呈する。

暗い森の大樹の下で眠り込んだポリフィーロは夢のなかで古代遺跡の風 景を前に目覚め、大きく口を開け牙を見せる狼を見つけ驚くのだが、こ うした恐怖のモチーフと至福のモチーフが交互に繰り返し現れながら物 語は進んでゆく。ポリフィーロが安らぎと快楽の場に辿り着くには通過 儀礼のように暗く狭く恐ろしい道を潜り抜けてゆかねばならない。愛の 島キュテーラ島まで、そうした困難に何度も遭遇しながら探し求める最 愛のポーリアとは言わば古代の叡智の象徴でもある。

ニコラ ビュフはこの『ポリフィーロの夢』の内容と構造をなぞり、原美 術館全体を冒険の旅の場へ変容させてしまう。美術館入口そばの木はポ リフィーロが夢見て眠る暗い森の大樹となり、玄関のキャノピーは巨大 な口を開け赤く長い舌を伸ばす狼となる。その難所をくぐり抜け内部に 入ると、壁画や立体を組み合わせたインスタレーションから AR 技術を 駆使したインタラクティブ・メディア作品まで、ファンタスティックな ニコラ・テーマパークが迷路状に繰り広げられている。

ニコラの「凱旋 / 彼らは地球を救った」(2008)は金銀に飾られた馬車 とニンフたちが先導する『ポリフィーロの夢』の凱旋挿画の形式と構図 を借りてつくられたものだ。凱旋とはある人物や事件を称えるため寓意的なキャラクターを集合させ行進させるスペクタクル形式だが、ニコラ の作品では地球の危機を救った日本の特撮物スーパー戦隊シリーズの ヒーローたちが、列をなしパレードするヴィジョンに変えられている。

ニコラの「プルチーノ」(2009)も『ポリフィーロの夢』の黒い象のオ ベリスクからヒントを得てつくられた。象の背に巨大なオベリスクが乗 るこの立体作品は、ベルニーニの「象のオベリスク」、ディズニーの「ダ ンボ」、日本の仏教建築、御神輿、ロッキングチェアなどの様々な要素 を融合させたロッキング象である。そこにはオベリスクという古代の叡 智の重さを支えるためにしっかりした頭部(頭脳)が必要だが、すべて の知には「運動と遊び」が欠かせないというニコラのメッセージが込め られる。

ニコラがアートディレクションを担当したハイドンのオペラ「オルラン ド パラディーノ」(2012)でも、こうした奇想と寓意の有機的な結合が 深いレベルで探求されている。サラセンの侵攻と戦うシャルルマーニュ とパラディンの活躍を背景にオルランドの失恋と発狂が語られるこのル ネッサンス時代の物語は、時代や地理は大雑把で、魔法使いや怪獣が現 れ、月世界旅行も実現される突飛な内容だが、ニコラはフランスのバロッ ク演劇の舞台装置からヒントを得た赤いアーケードをつくり、円台と階 段は映画「スターウォーズ / 帝国の逆襲」の雲の都市のセットの要素を 組み合わせ、魔女アルチーナの洞窟を生み出した。実はこの場面で魔女 アルチーナはオルランドを石化させ地獄へ突き落とすのだが、「スター ウォーズ / 帝国の逆襲」でもハン ソロはダース ベイダーにより炭素冷 凍(石化)されてしまう。つまりこの場面はニコラ独自の観念連合を引 き金にキャラクターの特性を煌めかせるものなのだ。

またオルランドの従者パスクアーレの服装は「仮面ライダー」のコス チュームから発想し、ヘルメットの翼や刃は漫画「アステリックス」を 思わせ、羊飼いのユーリアは映画「バーバレラ」のセクシーなデザイン を参考にし、狂えるオルランドの衣装は拘束衣と中世騎士の鎧をミック スさせ、髪や髭は「ドンキホーテ」やティム・バートンの「シザーハンズ」の要素も取り入れられる。さらにババリア王ロドモンテは歌舞伎の隈取 りの影響を受け、彼の乗る車はデコトラ スタイルで、海の怪獣は 90 年 代の TV ゲームの図式的な海を背景にゴジラやウルトラマン怪獣のよう に動きまわる。

ニコラのこうした創造の手法は単純な引用や折衷ではなく新しい次元を 生成させようとするものだ。エドゥアール グリッサンの言葉にならえ ば、その次元とは「ここ」と「よそ」に同時に存在し、根付くとともに 開かれ、調和しつつ流浪するようなこれまでにない次元である。

コミュニケーションや移動の機会が異常に増大し、人間の生き方や考え 方に大きな影響を与え、日常生活が混沌とした旅のようなものに変わっ てしまったこの時代において、アーチストは記号に溢れた文化のランド スケープを貫きながら複数の表現や新たな経路を生み出してゆく存在と して認識され始めている。こうした状況をニコラ・ブリオーは「オルター モダン時代」と捉え、西洋を発祥地とする 20 世紀モダンに対し、21 世 紀オルターモダンは惑星規模のクレオール化を基盤に地球全体に散ら ばった多彩な文化の関係性から生まれてくるものだとした。

そのオルターモダン時代の新たなマニエラを編み出すために重要なの は、歴史的な時間や地理的な場所を平板化せず、共与しあう文化の営み や物の記憶の深さを大切にし、スーパーフラットではなくスーパーヴォ リウムを目指す方向だとニコラ ビュフは考える。

現代のアーチストは驚異的な情報量を前に選択と応用の独自の感覚を養 いながら多様性の美学を開き均一性の単調さに亀裂を入れてゆかなくて はならない。厖大な知のネットワークをリズミカルな運動に変え、真面 目に歴史と遊び、楽しく時代錯誤し、悦ばしき知識を身体化してゆくこ とが求められる。ニコラ ビュフの一連の作品はそうした方向と姿勢から 生まれた最良の成果と言えるだろう。

翼の生えた馬、アドニスの墓、怪異なドラゴン、三美神、ヴェヌスの泉など寓意と象徴の横溢する『ポリフィーロの夢』は、そのような意味で ニコラ ビュフにとって大きな啓示であり続ける。その原題の「ヒュプネ ロトマキア ポリフィル」はギリシャ語の「ヒプノス(夢)」と「エロス

(愛)」と「マキア(戦い)」の合成語であり、この書を日本に初めて紹 介した澁澤龍彦は「狂恋夢」と訳した。夢と愛と戦いが狂おしいまでに 渾然一体となった人間の感情のオーガニックな結合状態がその言葉に込 められている。ニコラ・ビュフは、成長や環境に合わせ自らの根を動か し新たな根を付加させてゆく蔦のような創造力で、想像世界と現実世界 に多様なリンクを張り、独自のマニエラをこれからも更新し続けてゆく ことだろう。

 

 

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Un nouvel œil ornemental de l’art

Christine Buci-Glucksmann

2009

 

Text written on the occasion of the solo exhibition Mutations Merveilleuses de divers trucs (Marvelous Mutations of various stuff) held at Gallery Schirman & de Beaucé in 2009.

C’est au début du vingtième siècle, dans la Vienne de toutes les modernités, que la question de l’ornement fait l’objet d’une âpre polémique, qui scella bientôt son destin. Est-il un style, comme le veulent Klimt, Riegl, la Sécession et l’Art nouveau ? Ou un crime comme le prétendra A. Loos dans son célèbre pamphlet Ornement et crime, bientôt transformé en « L’ornement est un crime » . L’histoire est désormais entendue. Lascif, trop féminin et trop primitif, l’ornement avec ses arabesques va être exclu de l’art, et d’une modernité puritaine assoiffée de « pureté ». A l’exception de Matisse et de Klee, tous deux amoureux du mode ornemental de l’Islam, cette exclusion traversera tout le siècle.

Mais par un curieux retour du refoulé, la crise du modernisme et le développement du virtuel en art et architecture, s’accompagneront d’un véritable retour de l’ornement. Mais un ornement second, détourné, transgressé, objet de toutes les hybridations et mutations impures et risquées. Et c’est bien ce risque d’une ornementalité qui confond structure et décor, et habite toutes les surfaces comme une seconde peau, que prend Nicolas Buffe dans son travail. À l’encre blanche ou à la craie, durable ou éphémère, l’ornementalité habille tout de ses excès et de ses séductions. Renouant avec le sens originel d’un ornement cosmos et beauté, se jouant de l’abstrait comme du figuratif, mélangeant pop, BD et manga avec l’art de la Renaissance, Nicolas Buffe construit avec une très grande liberté et une inventivité remarquable, un nouvel œil ornemental de l’art, où l’artifice se meut en artefact. En arc, en cartouche, en vase, en mur, en sculptures, pucelle monstrueuse ou éléphant à bascule, l’ornement devient une interprétation graphique du monde, au plus près des grandes cultures ornementales, celles de l’Occident comme celle du Japon, où il séjourne actuellement.

Au départ, un premier grand modèle, les grotesques chères à la Renaissance et au maniérisme, depuis leur découverte dans la Maison de Néron. Le choix n’est pas indifférent. Car de l’Italie à Fontainebleau et aux Flandres, les grotesques représentent l’ornementalité la plus libre, la plus drôle et la plus fan- tasque, que l’on puisse imaginer. Niant l’espace, opérant une fusion érotique de l’organique et de l’inorganique, créant des hybrides mythologiques sans fin, ces grotesques qu’aimaient Montaigne comme Vasari, débouchent sur une véritable poétique du décor et de l’artifice, propre à la maniera, ce style du style, qui créent des êtres et des fictions1. Nicolas Buffe réinvente ce corpus en «Modulesques», en Songes, en Triomphe de l’amour, en Miroir aux sirènes, jusqu’à réaliser un Stu- diolo à la Maison Rouge.(2007). Né avec l’humanisme, le studiolo était une pièce secrète d’objets précieux et de portraits. Réinventé, il obéit à une même logique : créer un discours plastique qui reflète le monde. Dans une optique proche, Ni-

colas Buffe reprendra le parcours symbolique d’un célèbre livre : Le Songe de Poliphile qui mêlait déjà de multiples sources littéraires, pour mieux célébrer Polia, ce rêve d’une Antiquité retrouvée en ses mythes et figures, comme l’Age d’Or réalisé à Tokyo.

Mais que l’on ne s’y trompe pas. Nicolas Buffe rêve au présent, voire au futur, et ses figures, ses mythes viennent de la BD ou des mangas. Pingouin sur la célèbre boîte Campbell chère à Warhol, Carré-Méduse ou Mikiki de nos en- fances, Triomphe de Priape devenant celui de Bacchus réinterprété en Capitaine Haddock, Vache qui rit, ou Soleil en lapin playboy de Tex Avery, sans oublier ce Char du Triomphe habité de bien curieuses créatures. Bref, le vrai songe est celui de l’inventivité de la ligne et de toutes les mutations graphiques en un mé- tissage généralisé des cultures, comme ce chat « mangatisé» de Chesharo, ou les folles machines d’Ex Machina.

Aussi est-ce bien la métamorphose en tous ses états, celle d’Ovide bien sûr, qui sert de fil conducteur à son exposition actuelle à la Galerie Schirman & de Beaucé : Les mutations merveilleuses de divers trucs, traduction ironique des mutatione maravigliosa di diverse cose d’Ovide. Mais cette référence est l’objet de transformateurs multiples, où l’Actéon de Lodovico Dolce dialogue avec Les songes drolatiques de Pantagruel, et toute l’inspiration machinique des robots en un véritable univers de zombies… Bref, le véritable triomphe de Protée, sous la forme d’une bulle protéiforme, lui, ce vieux Dieu de la mer d’Homère, gardien des phoques, qui se change en dragon, panthère ou porc géant, comme les ava- tars des jeux vidéos contemporains.

Vous entrez donc dans la galerie, et vous vous trouvez d’abord face à Pul- cino, qui a retrouvé sa bascule, après avoir eu un merveilleux socle orné, lors du Parcours Saint Germain 2009. Un éléphant donc, avec son obélisque sur le dos, frère ironique de celui du Bernin installé à Rome depuis 1667. Comme un rocking- chair, l’énorme pachyderme, vous sourit de ses grands yeux blancs et de ses petites oreilles d’ange dressées. On pensera au Babar de l’enfance, ou à Ganesh, fils de Shiva, ce dieu indien de la sagesse et de la fortune, comme le hsiang chinois, homophone de bonheur. Mais tout bonheur n’est-il pas éphé- mère, comme cette œuvre murale qui vous fait face, et qui est vouée à une disparition lente. Détournant un rituel tout asiatique, les cendres blanches de la craie seront recueillies dans un reliquaire orné, forme sculptée d’un sacré perdu, devenu art.

L’éphémère donc, celui qui hante de nombreuses oeuvres contemporaines, virtuelles ou non, qui cherchent toutes à capter le temps dans le flux du monde. Comme s’il fallait saisir la modulation du temps, son passage infinitésimal entre apparition et disparition, dans un acte d’effacement progressif et imperceptible, réalisé ici lors d’une performance. Nicolas Buffe aime les oeuvres éphémères, comme celles qu’il a réalisées au Japon dans cet Age d’Or progressivement effacé. Or l’éphémère, et l’adhésion à l’éphémère – le mûjo et la beauté fragile des choses, le mono no aware – sont précisément des valeurs japonaises. Toutes celles que l’on retrouve dans Tokyo, dans sa culture des flux et son maniérisme fluide. Entre jeu et mélancolie légère, Nicolas Buffe nous livre sa conception de l’éphémère: une stylistique et une topologie de la ligne en arabesques, courbes et autres entrelacs, qui traversent les pratiques artistiques et architecturales, dans un passage et une disparition permanente des flux subtils du dessin. Car il faut « avoir l’esprit de la vague », comme on dit encore au Japon.

Vous descendez par un escalier en colimaçon et là, vous êtes à nouveau porté par l’esprit de la vague. Elle tourne, comme la roue de la fortune, sous la forme d’un phénakistiscope, cet ancêtre du cinéma, où l’on voit défiler des ima- ges animées. Elle flâne parmi les dessins et triomphes sur papier accrochés au mur, et dans la salle du fond, elle s’attarde face à un coffre mystérieux, entière- ment orné de l’extérieur. C’est la boîte de Pandore, un autre mythe réinventé. Or Pandore, qui fut l’objet des dons divins (pan tout, doron don) symbolise tous les maux liés au féminin Epiméthée ouvrit la boîte, et la souffrance, la vieillesse, la maladie et la folie en sortirent. Bref, Pandore figure le côté destructeur du sexe féminin. Ici, la boîte livre son secret tout érotique : des shunga, ces gravures érotiques japonaises, plus souvent réalistes et crues, qu’un Hokusai n’ignora pas, et qui renvoient à l’imaginaire de la copulation cosmique et incestueuse, mythe d’origine du Japon .

A l’époque de la mondialisation des flux, Nicolas Buffe réinvente sa traversée du réel, dans les immenses enveloppes des choses, ces masques, doubles et travestis, qui n’en finissent pas de se mêler et de s’enlacer. Mais élever le dessin à la puissance ornementale d’un œil ouvert sur le monde, se solde par un paradoxe évident. Tout est léger et inframince comme une architecture de l’éphémère. Mais tout est aussi précis, et vampirise les mythes en les actualisant dans l’ultra-moderne. Entre forme et informe, plan et chaos, passé et futur, le dessin sur fond noir-couleur et fondement, circule avec une liberté fantasque et une ironie étonnantes.

Alors, un mythe ultime, à détourner bien sûr. On raconte que la lune est un miroir de tous les êtres, au point de se mirer dans chaque goutte d’eau devenue monde. Car elle est changeante, impermanente, toujours éphémère. Faire rêver et re-rêver à toutes les apparitions, disparitions et mutations, à tous les Nemo, ces voyageurs qui ne sont personne : telle est la force toute nietzschéenne de l’œil ornemental de Nicolas Buffe, qui magnifie le réel, fût-il le plus insignifiant, de ses énergies, de ses rythmes et de ses parures«Aventure de lignes», aurait dit Michaux. Car: « mon plaisir était de faire venir, de faire apparaître, puis faire disparaître».2

_1 C.f. notre livre: Philosophie de l’ornement. D’Orient en Occident, Galilée, 2008, « Le Cogito ornemental du maniérisme ».
2 H. Michaux, Première version inédite d’«Emergences-Résurgences, Œuvres complètes», Edition établie par Raymond Bellour, Pléiade, tome 3, p .670, Gallimard 2004.

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The dream of Nicolas Buffe (ニコラ ビュフの夢)by Thomas Golsenne

Thomas Golsenne

2007

Text taken from the catalog published by Editions Ereme during the solo exhibition Hypnerotomachies held at Gallery Schirman & Beaucé in 2007.

 

Nicolas Buffe’s work, at first glance, is not very serious. His imagination is inhabited by comic strip characters, icons of video games, and other animation stars: an imagination that refuses the “adult” world and turns its back on Contemporary Art’s current references. As if confirming this refusal, Buffe structures his compositions with an ornamental repertory inherited from the Renaissance and 17th Century: cartouches, grotesques. With an astonishing virtuosity and irrefutable sense of humour, he combines the “High Culture” of the museum world and the “pop culture” of his youth.

But Buffe’s work isn’t by far only a postmodernist joke, or a decorative pastime. It is punctured by a much more profound question, which totally justifies his references to the Renaissance. This is the question of Artistic Inventiveness. Ever since the Romanticists, this has been confused with “inspiration” or “genius”: it is the manifestation of the creative gesture. For Nicolas Buffe, just as for the Renaissance artists, Invention is in fact a derivative of discovery and craftsmanship.

The inventor isn’t he who creates without a previous model thanks to his own genius; but in fact is the person who discovers in pre-existent works remarkable shapes, isolates them and creates new combinations from them. In this way, a do-it-yourselfer creates a new machine from used odds and ends; the decorator uses motifs already drawn to create new images. The master Artist-Craftsman-Decorator is not a person whose genius has isolated him from the human species, but in fact a person who is able to create original associations using the shapes that he puts together like so many puzzle pieces.

By adopting the ornamental structure of the Renaissance grotesques as a background to his compositions, Nicolas Buffe has chosen a type of decoration based essentially on his subjective choices: the grotesques are hybrids in which the most daring associations are permitted, if not recommended. It was these grotesques that defined the structure used by Montaigne in his Essais, which were a heteroclite mixture of citations and original texts; the grotesques that a sixteenth century author called “pictorial daydreams”, in that they so imitated the thoughts that are shaped by our dreams. The goal of Buffe is much more serious than it first appears, it is born of a “serious game” so prized during the Renaissance, that conjugates pure invention, pleasure and knowledge.

In the framework of this exhibition, Nicolas Buffe has chosen to precisely illustrate a Renaissance daydream, The Strife Of Love In A Dream (Hypnerotomachia Poliphili). Published anonymously in 1499, this novel of initiation was a best seller in the 16th century, despite (or perhaps, because of ) its hermetic status. Poliphilio, like all other Renaissance man of letters dreamt of a revived Antiquity, assimilated to the lady that filled his thoughts, Polia. Throughout the love story schema that is apparent in the text, it is an astonishing description of all kinds of ruins and monuments, inscriptions in all languages that combined to create a legacy of unlimited culture and curiosity without bounds. The real interest of this book lies in the assemblage of the diverse literary models, images and texts, writ- ten or visual sources, a combination that far surpasses modern day divergences of fiction and history, real or mythical Antiquity. In brief, a heteroclite composition in which the two emblems of the book are hieroglyphics and the grotesques, both invented by the anonymous author of Poliphilio’s Strife Of Love In A Dream. Nicolas Buffe would be hard put to find a more exact entity with which to exercise his talent than this prolific book.

Thomas Golsenne

Translated by Holly Warner

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